博士の愛した数式

オレは自室で本を読む際、殆ど椅子やソファに座らず布団に寝転がって読みます。読書の姿勢はこれといって決まっておらず、うつ伏せになって肘をクッションの上に乗せたり、横になるときは布団と枕の間にクッションを挟んで頭を高くして本を顔の正面に持ってきたり、仰向けの時は頭上にスタンドのライトを置き本を胸に乗せて読むのです。ただ、姿勢が定まらないのは姿勢をころころと変えるから、と付け足させていただきます。静止を保たず読書のリズムを刻み、寝返りを打ちながらゆっくりと着実に本のページは左手の中から右手へ収まっていくのです。
でもやはり、オレだって人間ですから、一つのことに集中していれば飽きや疲れが溜まります。それらを僅かにも感じたら、本に栞を挟んでそのまま仰向けになって天井を仰ぐのです。
柔らかい蛍光灯の灯を目に焼きこみ、目を閉じれば光の残像がぼやけて見えます。目を左右上下に動かして残像を振り払おうとしても消えてくれません。だけど暫くすれば何事もなかったように残像は姿を消しますよね。ときどき面白がって蛍光灯を見ながら何度も瞬きを繰り返して目に幾つもの残像を焼きこみます。そして目を瞑り、残像が一つ一つ闇に溶けていくのを徒に見守ったりしています。
二月の二十日以前に購入し、二月末あたりに読み終わった本『博士の愛した数式』。劇場で放映されているみたいですね。この本のタイトルを初めて知ったのは一昨年のことだったでしょうか。記憶が曖昧ですが、ネットのニュースに小川洋子さんがこの作品で本屋大賞を受賞した記事と受賞の模様が載っていました。そこに記載されていたタイトルとあらましに惹きつけられたことは確かに記憶しています。

 1990年の芥川賞受賞以来、1作ごとに確実に、その独自の世界観を築き上げてきた小川洋子。事故で記憶力を失った老数学者と、彼の世話をすることとなった母子とのふれあいを描いた本書は、そのひとつの到達点ともいえる作品である。現実との接点があいまいで、幻想的な登場人物を配す作風はそのままであるが、これまで著者の作品に潜んでいた漠然とした恐怖や不安の影は、本書には、いっさい見当たらない。あるのは、ただまっすぐなまでの、人生に対する悦びである。
家政婦として働く「私」は、ある春の日、年老いた元大学教師の家に派遣される。彼は優秀な数学者であったが、17年前に交通事故に遭い、それ以来、80分しか記憶を維持することができなくなったという。数字にしか興味を示さない彼とのコミュニケーションは、困難をきわめるものだった。しかし「私」の10歳になる息子との出会いをきっかけに、そのぎこちない関係に変化が訪れる。彼は、息子を笑顔で抱きしめると「ルート」と名づけ、「私」たちもいつしか彼を「博士」と呼ぶようになる。

80分間に限定された記憶、ページのあちこちに織りこまれた数式、そして江夏豊と野球カード。物語を構成するのは、ともすれば、その奇抜さばかりに目を奪われがちな要素が多い。しかし、著者の巧みな筆力は、そこから、他者へのいたわりや愛情の尊さ、すばらしさを見事に歌いあげる。博士とルートが抱き合うラストシーンにあふれるのは、人間の存在そのものにそそがれる、まばゆいばかりの祝福の光だ。3人のかけがえのない交わりは、一方で、あまりにもはかない。それだけに、博士の胸で揺れる野球カードのきらめきが、いつまでも、いつまでも心をとらえて離さない。(中島正敏)
amazonのレビューから引用

内容もさることながら作中の「数学」に魅力を感じ惹きつけられるます。オレにとって「数学」は切っても切り離せないものです。当然、惹きつけられた要因の第一は話の中に「数学」を用いたところなんですよ。作中のいたるところに数学の話が出てきます。読んでいると、もう他人事のようには思えなくなっていました。
数学を通してコミュニケーションをとる「博士」は記憶障害の持ち主。博士を世話する家政婦の「私」はシングルマザー。その二人の間に私の息子の「ルート」が加わることで世界に暖かい温度が生まれる気がしました。
彼らの世界に起こる様々な出来事を数学の公式などによって形成されているところは面白いです。友愛数によって博士と私が繋がっているなんて素敵ですよw人と人の繋がりを具体化できることは人の歓びだと思います。
オイラーの公式を使ったところは、小川さんの狙いを深く読み取りたくなりますよ。虚数が誰で1が誰なのか。そういった意図は無いのかもしれないけど、なぜ博士はe~iπ+1=0を皆に示したのか気になります。三角関数の変数にπを代入したことで0を表してしまうんですから。
そもそも虚数って矛盾だったんですよね。二乗して-1になる数はこの世に存在しないとされていました。でもその矛盾を整合したんです。つまりそれは矛盾を乗り越えたんですね。虚数は存在すると。もちろん虚数は目に見えない数で、量的に計ることの出来ない数ですよ。虚数:i=√(-1)。-1を匿うルート。博士がなぜルートという名を偉大な記号と言ったのかわかるような気がします。
矛盾を越えるということは、どうにもならないこととの共存ではないでしょうか。矛盾は一見エラーだけど、世の中にはそんなものが幾つもあって、いつも人の隣にあったりします。昔、倫理で習った生老病死って言葉も認めざるを得ないものですよね。認めたくないと言っても払拭できません。だから、諦めじゃないけど、共に生きればいいんですよ。否定するんじゃなくて、認めて仲良く生きていこうということです。
博士の記憶障害である80分しか記憶が保たない事実。残酷ではあるし翳りを見せたけれども、作中の中で博士は何度も輝いていました。メモから知る記憶についての宣告に絶望してずっと苦しんでいる博士はいなかったです。
確かに永遠に記憶を頭へ残しておきたいことは多々あります。でも目に焼きこまれた光の残像がやがて消えていくことと同様、時間は流れ、記憶には曖昧の影が塗られていきます。その事実と人は既に共存していますよね。かけがえのない最高の一時はその一瞬しかない、だからもっと生きよう、てなことで。
壁を乗り越える過程に共感し、人間愛溢れる話に心が温められた『博士の愛した数式』は、また読み返したい作品です。

博士の愛した数式 (新潮文庫)

博士の愛した数式 (新潮文庫)

ちなみに、この作品を読んでいるときに「私」の誕生日である2月20日を過ぎて、この日にこの感想だかわけのわからない思いつきの文を書ければ良かったなぁ、と思ったりしました。この本と一緒にもう一冊購入した本は既に読み終わりましたが、またこんな粗末な感想を書くのは来月になりそうです。忙しいんですよ。。。