ハウルの動く城

昨日に書くはずだったハウルの動く城について思うところをこれから記したいと思います。もちろんネタバレは多大に含んでいるので、見たくない方は見ないほうがよろしいと思います。出来れば映画を見終わった後にもう一度ここに来て俺の感想を見てくれると嬉しいです。映画を見た方も参考程度に呼んでいただければ幸いです。今のところかなり長く書くつもりなので見づらい文とは思いますが、俺の考えを見たいと思った方は最後まで読んでくださいね。では書きます。
 
12月22日の日記に記したとおり、その日はMr.インクレディブルハウルの動く城を続けて見ました。見る映画の順番はインクレディブルのほうが上映開始時間が早かったのでインクレディブル→ハウルということにしました。二つの映画を見た後はこの順番で良かったとも悪かったとも思っていません。ハウルを見るときには完全に頭の中で切り替えていましたから問題は無しです。
俺がハウルを見たときの客層は子連れの親子が多くて「見ている間、ちょっとうるさくなるかも」と心配していたのですが、そんな心配は無駄でした。各シーンで子供達が笑ったり、親に不安の声をかけていたところがわかって「なるほどね〜」と一人で納得してしまいました。特に笑い声が多かったのは(俺の記憶の範疇で)フードを被って老人に変身したマルクルが、ハウルの家に訪れる客に応答するときに発した「待たれよ」というシーン。笑いで言うところの「天丼」のように何度も繰り返すのと、少年が老人に変身して振舞う姿、それまで子供らしくも応答の準備をするところがギャップになっていて、俺も自然に笑みが出てました。ただ少年だったので「成長」していくと思いきや、「心の変化」でしたね。まぁ成長もしたとは思うのですが。あ、推論ですよ。
毎度、宮崎作品に出てくる食事のシーンは大変美味そうに表現されています。今回はソフィーが山で食べたチーズとパン、城の中でハウルとソフィーとマルクルがテーブルを囲んでこんがり焼いたベーコンと目玉焼きとパン…めちゃくちゃおいしそうでしたよ。そのシーンでソフィーがマルクルの食べ方を見て「色々な事を教えなくてはならない」ようなことをつぶやいていましたね。
俺は『千と千尋の神隠し』のテーマに「礼儀」というのがあったと思っています。親切にしてもらったら「ありがとう」、自分に非があるときは「ごめんなさい」を、誰かに言われるまでちゃんと言えなかった千尋は様々な出会いを通して心から礼を言ったり所作で表したりできるようになっていきます。湯婆婆の部屋に入るときはノックもせずに入った千尋も、風呂屋で働くうちにカオナシを気づかったり悪臭漂う神様を親身になって助けたり、とにかくいたるところに「礼儀」とは、といったメッセージがありましたね。
ハウルではマルクルの「行儀」についてそんなに触れていませんが、食事のシーンではそのように感じてしまいました。客席の親もソフィーのその一言に何かしら感じたかもしれませんね。まだ暗くなる前、つまり上映する少し前に、ほとんどの子供は映画に飽きてぐずらないためか、時間的に昼飯を抜いて見ているためかわかりませんが、飲み物やポップコーン、フライドポテトを片手に持っていたのが目に飛び込んできました。ですのでおいしそうな匂いが漂ってきます。実は二連続で映画を見たために俺は昼飯抜き。映画でもあんな美味そうなものを見せられ、腹がなったのは言うまでもないことです。映画を見ながら何にも口にしないスタンスを初めて呪いましたw
他にも笑いが起きていたシーンがありましたよ。ソフィーと荒地の魔女が宮殿の長い階段を登るときです。あれはソフィーと荒地の魔女が互いに憎まれ口や励ましの言葉を掛け合うところが少し不思議に見えたことと、ヒンが可愛らしいこと、荒地の魔女が多くの汗や鼻水を垂らして登っている様子によるものだと思います。でもあのシーンのほとんどは自分達の身に起きうることですよね。
例えばソフィーがお婆さんの姿になったばかりのときは、腰が曲がり歩く早さも遅くなって難儀している描写がありました。下に機関車が走り、煙に覆われても走る事などできないところは辛いことだろうと思います。これはお婆さんになってしまったことへの強い印象付けともとれるのですが、街の道路や造り、宮殿の急な階段は「高齢者には優しくない」とも読み取れます。果てにはヒンが階段を人の手助け無しでは登れないことで、「犬にも優しくない」てことも言えるかと。
いつだったかテレビで宮崎駿監督が考える街の構想のようなものを見ました。その中で特に記憶に残っているのは「病院(老人ホームだったかも)と学校(保育所みたいなところかも)が隣接している考え」です。その様子は絵で紹介されていて、ベッドに寝ている老人が子供達とにこやかに話している様子があったはずです。極端な考えを説明すると「子供達が生と死について身近に感じれる」といったところですね。
この考えに近いものがハウルの動く城の中にも入っていると思います。それはソフィー、魔力を失った荒地の魔女マルクルの図です。とは言っても死については触れていませんが、序盤のソフィーからマルクルは色々な事を学び取り、ソフィーが荒地の魔女を世話するところを見てマルクル荒地の魔女の手を引くところが一連で見れば、子供が老人から受け取るものが多いことを示していると思いました。
しかし、老人の苦労が表現されているからといって厭世的な振る舞いをしているわけではなく、むしろ生き生きとして「若いものには負けない」という表現が主となっていましたね。牧草を乗せた荷台に乗るソフィーの顔は凛々しく、色々な物言いに説得力を持つのはまさに年の功。追い詰められながらも状況を判断して臨機応変に対処していくのは達観しているとしか言いようがないほどです。荒地の魔女にいたっては「生の執着」と思われるシーンも。カルシファーの心臓を手放さないところは老人のわがままと受け取れるものの、根本は物欲でしょう。
俺が思うに、年をとるということは誰でも経験することであり、それを知ることと老人にどう接するかを宮崎駿監督は見てくれている人に知ってもらいたかったと思います。でも俺が出来ることは、先にも記した機関車の吐く煙にまかれていたソフィーに「大丈夫ですか?」と声をかけるように、困ってたら手を差し伸べることと、魔法の使えない急な階段で手を貸すことですね。
アクションシーンの流れが千と千尋の神隠しから変わりつつありますよね。気づいている人も多いとは思いますが、今回のハウルの動く城での戦闘では直接的にハウル側が人を倒す場面がなかったのです。千と千尋の映画について宮崎駿監督が海外のメディアにインタビューを受けたとき、聞かれた質問に「どうして湯婆婆やカオナシを倒さないのか」があったそうです。そのことをテレビで話した宮崎駿監督はその質問が出たことに対して「そういう作品ではない」みたいなことを言っていた気がします(本当にうろ覚え)。そういったところから千と千尋もののけ姫と対極的な作品でしょう。
パンフレットに載っている緒方貞子さんの談話にこんなのがありました。

それにしても、戦争のシーンに登場するあの怪物のような、虫のようなものの見苦しいこと。そこにはポジティブなイメージはまったくありません。あれが宮崎さんの中にある戦争を行う者のイメージなのかもしれませんね。そうした者たちの犠牲になるのは現実世界と同じ、普通に生活をしている人々。
いま、現実世界にも魔法使いが必要なのかもしれません。良い魔法使いが。

ハウルの動く城に出てくる争いのシーンは戦火に包まれた街、逃げ惑う人々、禍々しい飛行船、そこから排出される爆弾や魑魅魍魎のような怪物。それに立ち向かう大きなカラスに姿を変えたハウル。果敢に戦う様は人に対してではなく、「戦争」に向けてのものであると思いました。
つまり直接な描写で人を倒すものがなかったのは、監督が人を憎む事よりも争いを憎む考えのもとだったのでしょう。それで気味の悪い飛行船や、人外で争いのおろかさを語ったんだと思います。
加えて警句的なのが「魔法も科学も使い方一つなんだ」という事でしょう。ハウルが戦火に飛び立つことも城を動かすことも魔法の力によるもの。人を殺す事もできれば花を咲かす力もある。ソフィーが暮らしていた街に引っ越す事で家族を幸せに出来ますしね。
ラストあたりにハウルカルシファーとの関係がわかりますね。あそこでテレビで見た上映挨拶のときに木村拓哉さんが言っていた「星にぶつかった少年」ということがなんとなく理解できました。この一言はアフレコをする前に監督から言われたことみたいですよ。話の内容を知らないままそんな事を言われても戸惑ってしまいますね。この言葉にどういった意味がるのかは読み取れませんが、気になる所ですよね。
でも前半のハウルは少年のような気ままさと美についてイジイジしていました。それで後半にはソフィーを含めた家族を守る目的ができて、自虐的に魔法を使っていました。そうしてまで得たいものが見つかったから躍起になっていたんですよね。これもハウルがソフィーとの出会いによって心が変わってきた、成長してきたという事でしょう。髪の色が変わっただけで嘆いているところにソフィーが諭して落ち着かせたかと思ったら、ちょっと甘えてきたり。結局は煮え切らない思いをソフィーがきっかけになって守る事を決心したんですね。どれだけ酷い事になろうとも守るためと決心すれば強くなれるんですね。
なんと言っても一番強かったのはソフィーです。自分に自身を持てないながらも婆さんの姿で呪いを解くために奮闘し、恋までしちゃうんですから。恋をしているときというか、ハウルのことを想うとソフィーが若返る様子が話の流れに起伏を持ち、それがソフィーの心情を表していて感情移入ができましたよ。様々な事象に対して感情を投げかける姿が前向きだから強いと思いました。他にも年寄りの強みのような、都合が悪いことは聞こえないふりをしつつ、達観として進言や諭すことにも強さを感じました。
それとソフィーの一つ一つのセリフには、どうも監督のメッセージが織り込まれているような気がしてなりません。例えば宮殿から飛行機で逃げてきて城の中に突っ込み、城を形成しているものを見てソフィーが言った「城なんていうのはガラクタで建てられたもの(めちゃくちゃうろ覚え)」。これは「威厳を振舞っているものは中を見てみると所詮虚勢を張ったものなんだよ」と言っているように感じる事ができますよね。こういうのが沢山あったのですが、ほとんどを忘れてしまいました。。。そのことから、このハウルの動く城は何度も見なくちゃなぁ、と思います。
それにしても、やっぱりラブストーリーでしたね。どう惹かれあっていくかがドラマチックでよかったですよ。最後は心から「良かった」と思いました。本当にハッピーエンドでしたね。家族がみんな笑顔。これが一番です。このハッピーエンドの気持ちよさは、俺の中で『スウィングガールズ』『ピンポン』と同等です。
そして大泉洋さん…なんかわけわかりませんね…。王子に戻れたのは良いですよ、そのときの演技もよかったとは思います。ただあれだけなんですね…。こけそうになりましたよ。長い棒を使ってピョンピョンと去っていくところは「何なんだ?」って思いました。王子に戻ったシーンが短いせいもあって、あそこは時間の流れが速く感じました。王道といえばそうなのですが。もっと幸せそうなソフィーたちの暮らしぶりも見たかったです。大泉洋さんに聞きたいのは「最後にめちゃくちゃ喋れるカブと、言葉は喋らないけど鳴き続けられるヒンでは、どちらがよかったですか?」と。こんな事聞くのは野暮ですけどね。
俺は原作を読んでいないのでハウルの動く城に色々わからない部分があるのかどうかもわからないほどです。でもいい作品だと思うんですよ。監督のメッセージに富んでいる作品です。この作品の中で一番好きなのはカルシファーですね。悪魔なんだけ優しい、そんなところが好きです。最後のセリフに「みんなと一緒にいたい」とありましたし、まったく憎めない悪魔です。
結構…いや、かなり長い文章になってしまいました。とにかく思うところを書いていたらこの長さですよ。俺が書いてきた文に、これを読んでいる人の思うところと共通する部分があると非常に嬉しいです。俺もパンフレットに載っている冨士眞奈美さんの談話と、とても共感できるところがありました。サリマンの最後に言ったセリフ「このばかげた戦争を終わらせましょう」に宮崎駿監督の超現実的な願望を見たのも、全体を通して「女性は強い」と思わされたことも同じです。
受け取り方が多様にある中で、共感が人をつなぐ…これは相手を思いやり、助け合う心、つまり共同体、もしくは家族といってもいいでしょう。大げさではあるんですが、手を取り合い分かち合う事の素晴らしさと嬉しさ、これが「生きる楽しさ愛する歓び」かなぁって、ハウルの動く城を通して思いました。
これにて感想は終わりです。遅筆のせいで時間がかかってしまいましたよ。長い文を読んでくれてありがとうございます!
ちなみに、俺は二つの映画を見て創作意欲が湧いて大変ですwそれだけ学ぶところが多かったのです。
よっしゃー頑張るぞ!